タイのあれこれ

と、フィリピンのあれこれも

決断

 

コロナ禍もだいぶ収まり、

ここタイもコロナと共に生活する決意を決めたようで、

生活様式はコロナ以前にほぼ戻った感があります。

 

朝夕の渋滞、

エカマイのクラブの賑わい、

ナナ周辺の観光客、

街はずいぶんにぎやかになってきました。

 

変わったのは、

みんなマスクをつけていることと、

中国人観光客がいなくなったことぐらいでしょうか。

 

世界的に、

withコロナとなって、

外出が自由にできる見込みとなってきましたので、

私たちは決断しました。

 

タイから出て、

フィリピンに生活の拠点を移します。

 

タイに来たのは2014年2月でした。

 

当時は、

政府側と反政府側の対立が表面化し、

バンコク市内の主だった交差点は、

反政府勢力によって封鎖されていました。

 

その後、5月にクーデターが勃発。

東南アジアの強権的政治を目の当たりにしました。

 

2016年10月には、

国民から敬愛されていたプミポン国王が死去。

タイ国民が1年間黒い服を着て過ごし、

テレビも特別番組、

銀行のATMまで白黒になるという、

国全体が喪に服すという様子もこの目で見ました。

 

そして、

2020年から本格化した新型コロナウイルス感染症の大流行。

病院に搬送される途中に絶命するケースがあるほどの致死性と、

一緒に食事をしただけで感染する可能性があるという強力な伝染性により、

ロックダウンなどで人の動きが制限される期間が2年以上続き、

病気の犠牲者とその家族はもちろん、

人のつながりがなくなることにより

世界中の伝統や文化に大きな爪痕を残しました。

 

本当に、

いろいろなことがあった8年間でした。

 

しかし、

その間も、

私がここでしたかったことは、

ほぼ成し遂げられ、

十分に手応えを感じています。

 

バンコク市タガログ語会衆は、

大きく発展し、

繁栄を楽しんでいます。

 

ここに来た当初、会衆には、

整備された区域がなく、

野外奉仕のための群れもありませんでした。

 

開拓者も、

私たち2人しかいませんでしたが、

今では宣教者を含め24人が奉仕しています。

 

当時はフルタイムで働いていた若者や、

2冊目の研究が終わっていなかった若者が、

今は長老として奉仕しているのを見ると、

感慨深いものがあります。

 

妻の研究生たちも、

献身してクリスチャンとしての歩みを始めており、

今年は新しい出版物を全巻教えることもできました。

 

また、

刑務所で服役していた姉妹のお世話をできたのも、

大きな経験でした。

 

仮釈放まであと数年というところで

病魔に冒され、

自由の身になって家族とともに暮らすという夢は叶いませんでしたが、

希望の持つ力強さや、

自分のいる環境でベストを尽くすことの大切さを学ぶことができました。

 

私の両親も70代になり、

いつかは日本に戻らなくてはならない可能性もあるため、

残りの貴重な時間をどう過ごすかをよく考えたところ、

野外での奉仕を楽しめるフィリピンに移るという結論に至りました。

 

タイは、

とても暮らしやすいところで、

なにも不自由することはありませんでした。

 

ただ、

暑さに慣れるのに少し時間がかかったかな?

 

外の暑さと建物内のエアコンの寒さの差が激しく、

最初はおなかを壊してトイレに駆け込むことがたびたびありましたが、

数年後にはそれもなくなりましたね。

 

物価は安いし、

みんなは優しいし、

会衆もいい感じだし、

とても平和で楽な生活でした。

 

しかし、

時の流れは速いもので、

50歳の声が聞こえてきましたので、

ここで最後の大チャレンジ!

 

不衛生で、

貧しくて、

犯罪の多い、

神を恐れぬカトリックの国、

フィリピン。

 

行ってみて、

暮らしてみようじゃありませんか。

 

約半世紀の人生の総決算、

大棚ざらえということで、

何ができるか、

何ができないか、

いずれにしても、

学びが多くなるのは確実ですので、

試してみようと思います。

 

『「私​が​あなたたち​の​ため​に​天​の​水門​を​開い​て,あふれる​ほど​に​祝福​を​注ぐ​か​どう​か,私​を​試し​て​ほしい」と,大軍​を​率いる​エホバ​は​言う。』-マラキ書3章10節。

 

引っ越しは9月半ばの予定です。

 

海外から海外の引っ越しって、

何が必要なんだろう?

 

よく分かりませんが、

まあ、なんとかなると思います(笑)